デリダとドゥルーズ

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近代哲学の代表選手とも言える二人ですが、仏教の経典やキリスト教の聖書が、なんて判り易いと思えます。
兎に角難解と思えるのは私だけではないでしょう・・・。
ドゥルーズは特に難しいを超えて判らないの印象・・・。
デリダとドゥルーズを考えると、解けな問いである世界への思考は異なり、解けない事により迷宮を作り出す思考のデリダ。 解けない事により多様体としての可能性を思考するドゥルーズなのでしょうか。
しかし、ドゥルーズは寝たきりの体を動かし飛び降ります。 生きる事への哲学を展開していただけに、違和感のある最後だった気もします。
次回は易しい解説書を買います、それでも難しいとは思いますが・・・。
日本人には確たる宗教観がないと言われています。 個人的には、それもありかなと思っています、事実日本はその中で長きに渡り存続してきたのですから。
しかし、部分的な良い処取りは安易な解釈へ繋がります。
全ての人には仏性があり、祈れば救われる的思考は西洋思考と仏教思考の合体の気がするからです。
仏教上の全ての人に仏性があるは、その通りだと思います。 しかし仏性を持っているから救われるであるならば、生きて行く上での精進や努力を虚しくさせ、安易な平等思考しか残らない気がします。
仏陀は、生きる事は『苦』であり、死んでからも『苦』であると言われています。
個人的には、そこに『不平等だから平等へ努力する』思考がある気がします。 また仏教の教えは両極端にあるので、苦を理解すれば苦ではないでしょ・・的な思考もあると思います。
ある意味、その辺の論点がキリスト教から観れば、悲観的と言われる所以でしょう・・。
しかし裏を返せば、幸せな未来があるから祈りましょうも、今が不幸であるの前提です。 人間は凄い生き物です。 多くの人は人生が楽しいと思っています。
口では大変だと言いながらも、楽しいから生きているのでしょう。 苦を乗り切っているのです、それぞれが安易な解釈も無意識の淘汰し、それぞれに確たる宗教観がなくとも・・・。
一つひとつの異なりこそが、真理である仏陀は言っている気がします。
最近はすっかり野球も関心が薄れ、サッカーが紙面のトップを飾る事が多いです。 伏兵が相撲ですが、相撲の内容でなく事件でばっかりです・・・・・。
私も両国に住んでいた事があり、国技館は家から観る距離。 早朝から櫓太鼓が鳴り、学校へ行く前の早朝練習があり、弟子たちの四股の掛け声を聴いていたものです。
実に閉鎖的、隔絶した世界ですが、それは我々の生活でも言える事。 自分の入社した会社しか知らない場合とほとんど同じです。 故にその空間での当り前は、世間の当り前と思い込み、過ちを繰返すと言えます。
反対に転職回数が多いと、私も経験がありますが、期待しない分どこでも同じ・・とも言えます・・。 そうなると、技術や特殊な技能を売り込む訳ですから、開発中は良いのですが普及しない社内の風土に驚いたりもしました・・・。
人は結果、社会や世の中を自分の所属する世界でしか測れません。 それは世界とか地球とかを観る場合、所詮壁に開いた小さな穴から覗いているしか過ぎません。 観えるものは鍵穴から目の前に立つ像の毛穴を観ている様な物です。 穴から距離があれば観える気になるかもしれませんが、実際は穴の前に立つものを観る様な物、全体は観えません・・。
結局は覗く穴を自分で増やすしかないです。
世間や社会を判ったつもり、一番危険ですが・・それが判らないのが人間です。

本04


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